所変われば‥‥

 念願叶って、翌年、地元の採用試験に合格しました。採用になるまでの半年間、2つの中学校で講師をしました。
 でも、そこで直面したことは‥‥「校内暴力」でした。その頃、全国的に、中学生の校内暴力の嵐が吹き荒れていたのでした。
厳しい管理体制が敷かれていた○○市の教育現場とは真逆で、教師の支持や指導は生徒達にはね返され、さらに強く指導しようとすると、殴られる、蹴られる、そんな危険さえ覚悟しなければならない状況でした。

 先ず1校目は、産休講師として、夏休みが明けた2学期から赴任しました。
初めての授業は、2年生から。音楽室で生徒達を待っていると、始業のチャイムが鳴っても、誰もやって来ません。(ん? どうしたのかな?)教室を覗きに行ってみると、何とみんな遊んでいたのです。
「ねー、音楽の授業だよー!」
すると、「はぁー、俺達、音楽は受けないよっ!」と、遊び続けます。
(えっ!なに?この実態!)
私は、一人また一人と声をかけ、音楽室へ連れていき、ようやく全員が席に着いたと思ったら、終業のチャイム‥‥。

 次の授業は1年生。今度はちゃんと音楽室にやって来ました。ちょっとだけほっとして、「さあ、この曲から始めよう!」と準備したプリントを配布した途端、「ビリッ、ビリッ、ビリッーーー」と手にしたプリントを引き裂いて、床にまき散らしたのです。
「私達、こんなのいらないよーー。歌なんて歌わないからぁ」
(えっ‥‥?!)
生徒達が去った音楽室の床一面に、紙片が散乱。
(これが、学校‥‥!?)

打ちひしがれた思いで、ホウキで掃き集めました。

(こんな所で、やっていけるんだろうか‥‥)

うなだれて職員室に戻ると、初日の洗礼を浴びた私に、あちらこちらから温かい励ましの声が。(なるほど、こんな厳しい現場では、それぞれが踏ん張りながら、互いに支え合わないとやっていけないんだ。)

初めて直面した荒れた学校。周囲の先生達に助けられながらのスタートでした。
 

 この学校では、若手の先生達を中心に、自主的に、週に1回、夜遅くまで研修会を開いていました。どういう教育をやっていくべきなのか、生徒達の荒れに何を見ていくべきなのかetc.  熱心に討議が続きました。このようなエネルギッシュで、且つ、温かみのある職員間の空気も初めてのことで、この職員集団のおかげで、どうにか2学期の終業式まで、持ちこたえることができました。

歌って、泣いて、歌った ♫

さて、いよいよ最後、修了式の日。
体育館での式が終わり、それぞれの教室でホームルーム。いつもと変わらない体育館。

 やがてそれぞれクラスが解散となり、しばらくすると「先生、体育館へ来てください」と一人の生徒が職員室に。スタスタと彼の後に続いて、体育館へ。

ところが、入り口に立った途端、私は驚きのあまり、動けなくなりました。
全クラスの生徒達が集まり、整列し、こちらを凝視。ステージの真ん中には、花で飾られたピアノが。
(いつの間にこんなことを!?教師に支持されることなく、自分達で集まったの!?)
自主的な活動の場など全く皆無のこの学校で、生徒達だけでこんなことを…!
茫然と立ちすくんでいると、「先生!ステージにお願いします!」と生徒達の声が。
(はっ!また、自分の感情にはまり込んでしまってる)
(生徒達に思いっきり、歌わせるんだ! ピアノ弾かなきゃ!)


 自分がこんな場にいることが、とても現実のこととは思えず、ふわふわとした足取りで、ステージに上がり、一面、花で飾られたピアノの前に座り、彼らと歌ってきた数々の曲を一心に弾き続けました。体育館中に、高らかな、感極まった歌声が響き渡りました。まるで夢の中にいるようでした。

 すべて歌い終わり、無言でステージを下り、深々と彼らに頭を下げて、体育館を出ました。後ろから、お礼を言ってくれる子、嗚咽する子、私の名前を呼ぶ子……etc.様々な声が聞こえてきました。私は止めどもなく涙があふれ、放心状態で職員室に戻りました。24年間の人生の中で、最良のひと時でした。

 

 その後40数年間、様々な歌を生徒達と歌い続けましたが、ここまで「歌いたいっ!」という熱い思いで、行動に移していく生徒達のエネルギーを生み出すことはできませんでした。何故だろう?と、振り返ってみました。

 

 教師になりたての頃は『なぜ、人は歌うんだ?!』このことを問いかけながら、その答えをそれぞれが感得してほしいと思いながら授業をしていました。

 1945年8月9日、学徒動員で工場で働いていた当時女学生だった叔母達は、被爆し、爆心地近くを流れる浦上川の川沿いに、同級生達と横たわり、そこでいつも歌っていた歌を歌ったというのです。「お母さーん」と泣き叫ぶのではなく、全身の火傷に悲痛の叫びを上げるのではなく、か細い声で歌ったそうです。そして、次第にその声が一人消え、二人消え‥‥。

こんな時に、なぜ人が歌うのか。最期の力で、何故歌うのか。子どもの頃、母から伝え聞いたこのことが、ずっと心の中にありました。

叔母の体験談は、生徒達にも話していました。そして、ヒロシマナガサキ、平和の歌を、数多く生徒達と歌いました。

 

 生徒達が「歌いたいですっ!」そういう思いを抱いて、自発的に動き出したエネルギーの源は、こういうことにもあったように思います。その後の生徒像の変化は、時代や生徒達の変化ではなく、私自身の心の変化が、最も影響していたのです。

先生、思いっきり歌わせて!

受け持っていた2年生の授業をすべて終え、この学校に来るのもあと数日という時、
一人の男子生徒がやってやってきて
「先生、もう一度、最後にみんなで歌わせてください!」
「ん? もう授業は終わったでしょっ。」
「いえ、最後の授業では、先生が辞めると聞いて、驚いて、悲しくて泣いてしまって、歌えなかったんです。」
「…もう、そんな時間、ないでしょ?」
「修了式の日、体育館で歌わせて下さい。準備は僕らがすべてやります。先生はピアノを弾いてくれるだけでいいんです。」
「でもねー……」
「最後に、思いっきり歌わせてください、お願いします!」
「………。」
こんな言葉が生徒達から出てくることなど、予想もしておらず、驚いて、困惑して、不安になって、それだけでした。
こんな管理体制の強い学校で、生徒自ら何かをやるなんて、あり得ない。
ましてや、そんなことに許可が下りるはずもない。考えらない……。

 このことを友人に話し、「私、きっぱり断ったけどね!」と言うと、突然、その友人が怒り出しました。
「あなたは、生徒自らの考えで行動していく、そんな力を育てる教育をしたいと言い続けてたでしょっ。その為に、地元に帰るんでしょっ。生徒達がようやく動き出そうとしている時、どうしてそれを制するの!」

そして、さらに「他の先生達がどう思うかを気にしてる。大袈裟なことをしてほしくないって思ってる。それって自分のことしか考えてないってことだよ!」と。
この言葉はグサッと、私のど真ん中に突き刺さりました。確かに自分の立場だけ……。
「ちゃんと生徒達の気持ちを受け止めて!思いっきり歌わせてあげて!」

 こんなにビシッと叱ってくれる友人がいてくれること、ほんとに嬉しく思いました。危うく生徒達の思いを踏みにじるところでした。

あれーっ? ココは公立学校だよねー?

 生徒と音楽の授業をしている時、歌っている時、とても充実していました。
こんな教師生活を送られていることを幸せだと、心底思っていました。
 
 しかし、時がたつにつれ、少しずつ○○市の教育現場の実情が見えてくると、
「???」の疑問や、「!!!」の驚きが、沸き起こってきました。
私が体験したことのないような教育が、行われていたのです。

○○市は、中学校間の競争が激しく、それに打ち勝つため、校内では様々な手段が講じられていました。
・毎朝、始業前に小テスト ⇒ 合格点に達しない生徒は放課後の補習
・夏休みの長期間の補習
・諸行事はすべて教師の手で ⇐ 生徒は勉強だけに集中させる
 (例)「修学旅行のことは、1週間前まで一切話題に上げてはいけませんよ~」
    という教師への禁止令。

 当然、職員室内では、教師間の競争激化。そして、最もその手腕を要求される3年生の担任には、競争で好成績を出す教師が指名されていました。
 (例) 「私、この競争がイヤなの。心が疲れる」という女性の先生のボヤキ。

 こんな教育体制の中、生徒達は指示に逆らうこともなく、管理された学校生活に疑問を抱くこともなく、落ち着いて生活していました。それ以外の学校生活を体験したことないのだから、当然ですが。

 でも、こんな管理教育の中では、自分の判断で主体的に行動したり、考えをぶつけ合いながら互いをより深く理解し合ったり、また視野を広げながら、どう生きていこうかと自問自答したり…そんな時間や場は、全くありません。
<40年後の現在、こんな教育実践を要求されるようになってきましたが>

 私は次第に、このような教育を強いられることに反発を抱くようになりました。
「辞めたい。こんなの私が望んでいた教育じゃない!」
地元故郷の学校に勤める友人達の話を聞くたびに
「こんな教育現場に、骨を埋めたくない!」という思いが強まっていきました。

 でもここを辞めるということは、生徒達を見捨てるということ、生徒達を放り出して、逃げ出すということになるんだという気持も大きくなり、葛藤する日々でした。

 悩み込んでいる私に、一人の友人が言ってくれました。
「 “3本の矢”だよ!独りでは出来ないことも、一緒にやる仲間がいたら、成し遂げられるよ。故郷に帰って思いっきりやっておいで。ここで一人でうつむいているより、やれる場で頑張ればいい。逃げることにはならないよ」
この言葉に勇気づけられ、地元の採用試験を受験しなおすことを決心しました。

教師生活、スタート!

教師になりたての3年間は、月曜日が来ると、ウキウキ、ワクワク。
また1週間、生徒達と会える!授業ができる!
給料日には「あぁ~申し訳ない。やりたいことをやって、お金を頂くなんて」
そう思いながらの日々でした。

でも、いつも、2つの不安がありました。
① この熱~い情熱だけでやってちゃダメだ。若さはいつか失うんだから。
② 高々一人の人間。こんな私がこのまま生徒達の前に立ってていいのかなぁ。

そこで、学べる場を求めて、あちこちへ。すると、全国には色んな先生達がいました。

生徒達の手で創り上げる学校生活。様々な行事。

それを支えながら、生徒達を育てていく先生。
      👇(でも、今の教育現場では)
管理教育が強まるばかりで、生徒達の自主性、主体性を育てる実践は影を潜めてます。


生き生きとした全校生徒の合唱が響き渡る学校。
怒らず叱らず、生き生きとした歌声を引き出す先生。
      👇(でも、今の教育現場では)
入賞すること目標に取り組む合唱コンクール勝ち負けをかけて歌い続け、本番が終われば、校内から歌声は消えていく……

この40年間に大きく変化していった教育の現場。そんなことなど予想もできないまま、出会った先生方や生き生きとした実践に触発され、40年前の新米教師は、勢いよく走り出しました。

 

ソーシャル・ディスタンスでの合唱の意味

コロナ禍での授業づくり。「合唱禁止」の下での音楽の授業づくり。

どうやっていけばいいんだろう?今だからこそできることは?

うーむ、私だったら……?そう思って考えてみたのです。

 

大学生の頃、『合唱』の時間が苦痛でした。歌うことがとても億劫でした。

興味の持てない曲を、先輩達が指揮をするだけ。私達は練習台?!

だから、まだかまだかと時計を見ながら、口パクしていました。

(この時間に、学べることは何も無し。教授の怠慢ダっ!)

 

私が合唱を楽しめるようになったのは、つい最近のことです。

高校の同窓生で結成したちっちゃな合唱団に入ってからのこと。

敢えてハーモニー感を学ぶために、アルトパートを希望。

小人数なので、口パクなんて許されません。

一人一人が、それぞれのパートの柱。音がズレると、響き渡ってしまう。

音取りに集中しながら、時折「あっ、今、ハモってる!」と感じ取れる瞬間、

あぁ、これが合唱の面白みかぁ~と、味わえるようになったのです。

 

授業でも、こんな合唱づくりが、やれる時なんだと思うのです。

感染防止の為に「距離を取って! 近づいちゃダメだよ!」

これまでのように隣からの歌声に頼りっきりになれない。自分の声がよーく聞こえる。周囲と溶けあっているか集中しながら、音楽が進んでいく。

これこそ、今だからやっていける合唱。一人一人が柱の合唱づくり。

 

このことは、今を生きている中学生にとても重要なことと思います。

生徒達は、集団の中で、自分の考えや思いを伝える前に、周囲をうかがう。

(ん?そうかなぁ?)(あれーっ?)と思っても、言わない、出さない。

その後の自分の立場や陰口が気になるから、周囲に同調。○○さんに同調。

幼い頃より、こうやって人とやり過ごしていく術を身につけてきた中学生達。

だからこそ今「人との距離を取りなさい」この指示をテコにして一人になる。そして、自分はどう思う? どう感じる?と、周囲をうかがわずに自分と向きあう。

そんな時間を過ごさせることができると思うのです。

あれもできない、これもダメだと項垂れていては、今を中学生として生きている生徒達の時間が、意味あるものにならないと思うのです。

体育大会も無し。修学旅行も無し。

でも、表面的な浅く危うい繋がりの中で過ごしていた生徒達に、じっくりと内省できる場を創っていく。一人になることに意味があったと実感させる。

私だったら……、そんな日々を創り出したい、そう考えます。