歌って、泣いて、歌った ♫

さて、いよいよ最後、修了式の日。
体育館での式が終わり、それぞれの教室でホームルーム。いつもと変わらない体育館。

 やがてそれぞれクラスが解散となり、しばらくすると「先生、体育館へ来てください」と一人の生徒が職員室に。スタスタと彼の後に続いて、体育館へ。

ところが、入り口に立った途端、私は驚きのあまり、動けなくなりました。
全クラスの生徒達が集まり、整列し、こちらを凝視。ステージの真ん中には、花で飾られたピアノが。
(いつの間にこんなことを!?教師に支持されることなく、自分達で集まったの!?)
自主的な活動の場など全く皆無のこの学校で、生徒達だけでこんなことを…!
茫然と立ちすくんでいると、「先生!ステージにお願いします!」と生徒達の声が。
(はっ!また、自分の感情にはまり込んでしまってる)
(生徒達に思いっきり、歌わせるんだ! ピアノ弾かなきゃ!)


 自分がこんな場にいることが、とても現実のこととは思えず、ふわふわとした足取りで、ステージに上がり、一面、花で飾られたピアノの前に座り、彼らと歌ってきた数々の曲を一心に弾き続けました。体育館中に、高らかな、感極まった歌声が響き渡りました。まるで夢の中にいるようでした。

 すべて歌い終わり、無言でステージを下り、深々と彼らに頭を下げて、体育館を出ました。後ろから、お礼を言ってくれる子、嗚咽する子、私の名前を呼ぶ子……etc.様々な声が聞こえてきました。私は止めどもなく涙があふれ、放心状態で職員室に戻りました。24年間の人生の中で、最良のひと時でした。

 

 その後40数年間、様々な歌を生徒達と歌い続けましたが、ここまで「歌いたいっ!」という熱い思いで、行動に移していく生徒達のエネルギーを生み出すことはできませんでした。何故だろう?と、振り返ってみました。

 

 教師になりたての頃は『なぜ、人は歌うんだ?!』このことを問いかけながら、その答えをそれぞれが感得してほしいと思いながら授業をしていました。

 1945年8月9日、学徒動員で工場で働いていた当時女学生だった叔母達は、被爆し、爆心地近くを流れる浦上川の川沿いに、同級生達と横たわり、そこでいつも歌っていた歌を歌ったというのです。「お母さーん」と泣き叫ぶのではなく、全身の火傷に悲痛の叫びを上げるのではなく、か細い声で歌ったそうです。そして、次第にその声が一人消え、二人消え‥‥。

こんな時に、なぜ人が歌うのか。最期の力で、何故歌うのか。子どもの頃、母から伝え聞いたこのことが、ずっと心の中にありました。

叔母の体験談は、生徒達にも話していました。そして、ヒロシマナガサキ、平和の歌を、数多く生徒達と歌いました。

 

 生徒達が「歌いたいですっ!」そういう思いを抱いて、自発的に動き出したエネルギーの源は、こういうことにもあったように思います。その後の生徒像の変化は、時代や生徒達の変化ではなく、私自身の心の変化が、最も影響していたのです。